主人公の井伊直虎を柴咲コウさんが演じる2017年(平成29年)の大河ドラマ「おんな城主 直虎」のゆかりの地を紹介します。
龍潭寺
浜松にある龍潭寺(りょうたんじ)は井伊家の祖霊を祀る井伊家の菩提寺です。
龍潭寺2代目住職の南渓瑞聞(なんけいずいもん)は女性である直虎を領主に推薦した立役者として知られています。
墓所のほかに小堀遠州が作成した名勝庭園や左甚五郎作と伝わる龍の彫刻がみどころです。
共保公出生の井戸
龍潭寺から徒歩5分くらいの所にある井戸です。
井伊氏の祖にあたる井伊共保(いいともやす)が出生した井戸と伝えられています。
井伊谷城
標高約115mの丘陵に築かれた井伊氏の本拠地が井伊谷城(いいのやじょう)で、山麓には居館がありました。
現在は城山公園として整備されていて、土塁の遺構を見ることができます。
自耕庵(現・妙雲寺)
井伊直虎の菩提寺で、直虎がなくなったあとに葬られたのが自耕庵(じこうあん)とされています。
井伊直虎と龍潭寺2代目住職の南渓瑞聞の位牌が2015年11月と2016年1月に妙雲寺の本堂で発見されています。
妙雲寺(みょううんじ)は通常は拝観を受け付けていない寺院ですが、位牌が発見されたことで特別公開されています。
特別公開は2016年4月16日以降の土日祝の9時~16時行われており、位牌と寺院が公開されます。
この特別公開は当分の間続くと公表されているものの、公開終了日が明記されておらず、今後の参拝者数を見て決めるということなのかもしれません。
渭伊神社
渭伊神社(いいじんじゃ)は井戸や井水を祭祀対象とした神社で、井伊氏の発祥とともに氏神になりました。
渭伊神社は、もともと龍潭寺の境内にあったものの、南北兵乱の時に現在地へ移されたとされています。
神社の本殿の背後の丘には古代に祭祀の場となっていた巨石があります(天白磐座遺跡)。
井伊直親の墓
井伊直虎の元許婚で井伊家第23代当主の井伊直親(いいなおちか)の墓です。
石碑の前の灯籠は、江戸幕府の大老をつとめたことで知られる井伊直弼により1851年に寄進されたものです。
蜂前神社
蜂前神社(はちさきじんじゃ)は直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」を所蔵しています。
書状は浜松市博物館で保管されています。
三岳城
三岳城(みたけじょう)は標高466.8mの三岳山山頂に築かれた南北朝時代の山城です。
戦国時代には、井伊家が三岳城に籠城して今川方に抵抗しましたが、1513年に落城しました。
大本山 方広寺
井伊家の一族の奥山朝藤(おくやまともふじ)が後醍醐天皇の皇子の無文元選(むもんげんせん)を初代住職に招いて開創した寺院です。
井伊直政の実母は奥山家の出身です。
禅宗臨済宗方広寺派の大本山で、間口32m奥行27mの大きな本堂や半僧杉と呼ばれる杉の大木の周囲にある五百羅漢像がみどころです。
浜松城
徳川家康が29歳から47歳までの17年間を過ごした城で、歴代城主の多くがのちに江戸幕府に重役になったため「出世城」と呼ばれています。
現在ある天守は1958年に建立されたものです。
天守内部は資料館として使われ、家康ゆかりの品々を見学することができます。
浜松元城町東照宮(引馬城跡)
かつては今川軍の拠点だった引馬城(ひくまじょう)の跡地に建てられている神社で、浜松城のすぐ東側にあります。
徳川家康をご祭神として祀っています。
浜松城を訪れたら、この東照宮も合わせて参拝することをおすすめします。
三方ヶ原古戦場
1572年に起こった三方ヶ原(みかたがはら)の戦いは、徳川家康が武田信玄に大敗した戦いとして知られています。
この戦いのあと井伊谷領はしばらく武田軍に占拠されます。
犀ヶ崖古戦場
三方ヶ原の戦いで武田軍に惨敗して、敗走した徳川軍は浜松城に籠城しました。
武田軍は追撃を中止して、犀ヶ崖(さいがかけ)付近で一部の兵を集めて夜営しました。
徳川家康は犀ヶ崖に布の橋を掛け、武田軍に奇襲をしかけて追い落としたと伝わっています。
仏坂古戦場
三方ヶ原の戦いの前哨戦に位置づけられるのが仏坂の戦いです。
徳川方の井伊谷三人衆と武田軍が戦い、徳川勢が敗れました。
浜松市博物館
井伊直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状(蜂前神社文書)」を保管しています。
徳川家康や浜松に関する資料の展示もしています。
彦根城
国宝の天守を持つお城として知られている彦根城は井伊氏が城主をつとめてきた城です。
徳川四天王の一人と呼ばれるほど活躍した井伊直政は1600年の関ヶ原の戦いのあと、石田三成の旧領だった近江国佐和山(滋賀県彦根市)を与えられ、彦根藩の初代藩主となりました。
直政は関ヶ原の戦いの負傷で彦根城の築城前の1602年になくなりましたが、次男の井伊直孝(いいなおたか)が彦根藩2代目藩主となり、その子孫が彦根藩主を継承しました。