京都の清水寺には馬駐という建造物が現存しています。
馬駐は”うまどめ”と読み、馬を留めておく場所なのですが、馬駐の遺構があるのは全国的に見ても珍しいです。
この記事では清水寺の馬駐の歴史や建築のほか、馬駐にまつわる七不思議についても画像を用いて説明します。
清水寺の馬駐の場所はどこ?
清水寺の馬駐は、上の図の左下にあります。
参拝者は清水坂を登りきると、丹塗りの大きな仁王門を目にすることになります。
馬駐は階段を上る前の、仁王門に向かって左手前側にあります。
馬駐の歴史と建築は?能の熊野にも登場する
馬駐は馬を繋いでおくための建造物で、現代の駐車場のような役割がありました。
室町時代初期の世阿弥(ぜあみ)作の「熊野(ゆや)」という能(謡曲)に清水寺の馬駐が登場します。
子安の塔を過ぎ行けば、春の隙(ひま)行く駒(こま)の道。
はや程(ほど)もなく、これぞこの車宿(くるまやど)り、馬留(うまとど)め。
これより花車(はなぐるま)、おりゐの衣(ころも)、播磨潟(はりまがた)・飾磨(しかま)の徒歩(かちぢ)
と「熊野」では謡われています。
「馬に乗って清水寺に来た身分の高い公家や武家も馬から降りて、馬駐に馬を繋ぎ、ここから先の諸堂には徒歩で参詣した」ということがわかります。
引用部分のはじめに”子安の塔を過ぎ行けば”とあります。
”子安の塔”というと安産のご利益がある千手観音を祀る清水寺境内にある三重塔のことで、清水の舞台からもその姿を眺めることができることをご存知の方もいるでしょう。
子安の塔は上の図の右端にあります。
子安の塔は馬駐と全然違う場所にあるのに、なぜ”子安の塔を過ぎ行けば”と謡われているのか疑問に思う方もいるのではないでしょうか。
子安の塔が現在の場所に移設されたのは明治時代になってからのことで、移設前は清水寺の門前にあったのです。
そのため室町時代の能では”子安の塔を過ぎ行けば”と謡われています。
馬駐の遺構は全国的に珍しく、しかも清水寺のものは規模が大きいです。
現存する馬駐は、応仁の乱で焼失した後に再建された建築です。
清水寺の建造物の多くは、江戸時代の1629年(寛永6年)に起こった火災で焼失した後に再建されたものであるため、
馬駐は清水寺境内のなかで、寛永の火災以前からの数少ない建造物の一つです。
実用的な建造物ということもあってか、建築様式は簡素です。
屋根の形式は、文庫本を開いた状態で伏せたような形をした切妻造です。
屋根の葺き方は、本瓦葺。
天井は化粧屋根裏。
馬駐の大きさと高さ
- 間口三間10.5m
- 奥行二間5.1m
- 高さ5.2m
中仕切りは五間(柱が6本ある)で五室あるため、馬を同時に最大5頭まで繋ぐことができます。
上の画像では馬駐の室の数を黄色の数字、中仕切りの柱の数を赤色の数字で表記しています。
一室当たりの間口は1.90m、奥行は2.29m。
中仕切りが五間なのに対して、正面が三間(柱が4本)となっているのは、より開放的な空間にして馬の出入りをしやすくするためです。
上の画像では馬駐の正面の柱の数を緑色の数字で表記しています。
馬を留める場所であるため、床は土間。
1952年(昭和27年)3月29日に国の重要文化財に指定されています。
清水寺では2008年(平成20年)から10年以上をかけて、境内にある建造物で順番に工事されていますが、馬駐は2010年(平成22年)に解体修理が完了しています。
清水寺の改修工事の期間はいつまで?清水の舞台には立ち入れる?
馬駐にまつわる清水寺の七不思議は?
馬駐には、清水寺の七不思議の一つに数えられている不思議があります。
馬駐の中仕切りの柱には、馬の手綱を繋いでおく鐶(かん)という金具が取りつけられています。
馬を留める時は、馬の左右の柱にある鐶に手綱を繋ぎます。
この鐶の向きが、清水寺の七不思議のひとつになっていて、
右から3番目の柱の右面上方と、右から4番目の柱の右面下方だけ、他とは金具の向きが異なり、垂直に垂れ下がるようについています。
向きの異なる金具は逆鐶(さかさかん)と呼ばれています。
金具は通常、次の画像のような向きに取りつけられています。
次が向きが異なる金具の画像です。
金具が垂直に垂れるように取りつけられています。
こちらも金具が垂直に垂れ下がるようにつけられています。
なぜ2ヶ所だけ金具の向きが異なるのか理由は伝わっていません。
大工さんがつけ間違えたのではなく、遊び心で向きを変えてつけられたと考えられています。