京都で有数の観光地の清水寺。
清水の舞台で有名なこの場所は、実に紆余曲折を経て今日に至る歴史があるのです。
この記事では、そんな清水寺の歴史についてご紹介します。
歴史を知って清水寺を訪れると、より楽しみが増えるのではないでしょうか。
延鎮の夢のお告げで出会いからはじまる清水寺の歴史
清水寺の起源は『今昔物語集』をはじめとしたさまざまな史料に記載されています。
その起源は平安京よりも古く奈良時代に遡ります。
それらによると、物語は現在の奈良県に存在するお寺の僧だった賢心(けんしん:のちの延鎮)が夢でお告げを受けたことに始まります。
「北へ向かえ」という夢のお告げに従った賢心は、現在清水寺のある音羽山にたどり着きました。
そこで小川に一筋の金色の水が流れているのを目にします。
そして現在の音羽の滝がある場所の近くで、観音様の化身とされる行叡(ぎょうえい)と名乗る老人に出会うのです。
行叡の指示にしたがった賢心は、霊木に千手観音像を刻み、観音像を行叡の住んでいた庵に安置して行叡のもどりを待ちました。
このエピソードが清水寺の始まりであるとされています。
清水寺のご本尊が千手観音像であるというのもここに端を発しているのですね。
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清水寺を作った人物は蝦夷討伐で有名な坂上田村麻呂
賢心が行叡の帰りを待ち続け、約2年の歳月が経過したとき賢心は坂上田村麻呂と出会います。
坂上田村麻呂は歴史の教科書で、平安時代初期に蝦夷を討伐した功績で名を残した人物として知られています。
その坂上田村麻呂が清水寺創建に大きく貢献したとされています。
そこには次のようなエピソードがあります。
ある日、坂上田村麻呂は、妊娠中の妻にシカの肉を食べさせようと音羽山にやってきました。
当時シカの肉は貴重なタンパク源として、京都の貴族の間で大変重宝されていたのです。
音羽山に入り込んだ田村麻呂は、音羽の滝の近くで賢心と出会います。
霊地での殺生を戒められた上に、観音の教えを説かれ、賢心の修行の決意にいたく感銘を受けました。
帰宅した田村麻呂は妻にこのこと話します。
すると妻は、殺生の罪から救われるために自分たちの家を解体し、観音像を安置するお堂を建てることを田村麻呂に提案しました。
その提案に賛同した田村麻呂は、天皇の許しを得て僧を迎え、お堂を建設したのです。
その後、田村麻呂は東北地方の蝦夷を討伐する「征夷大将軍」に任命され、観音の使者の加勢を得たかのごとく蝦夷を打ち破ることに成功したとされています。
その感謝の意味を込めて賢心(後に延鎮と改名)とともに本堂を改築し、金色の千手観音像と地蔵菩薩像・毘沙門天像を造って清水寺に奉納しました。
この賢心と田村麻呂の「必死の覚悟をもって物事を実行する」姿勢も、「清水の舞台から飛び降りる」という言葉の意味に込められているのかもしれませんね。
そして田村麻呂が出世を重ねていくにつれ、清水寺は敷地を朝廷から拝領し、天皇の御願寺(公認のお寺)に指定されたことで発展していくのです。
清水寺の歴史年表1〜創建から天皇の御願寺へ
- 778年:大和国に僧・賢心が清水寺のある音羽山にたどり着き行叡と出会う
- 780年:坂上田村麻呂が音羽山を訪れ、賢心と出会う
- 805年:坂上田村麻呂が朝廷より清水寺の土地を拝領する
- 810年:嵯峨天皇の勅許を得て天皇の御願寺となる
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清水寺の苦難の道のり〜幾多の焼失や困難を超えて
その後の清水寺の発展は、決して順風満帆ではありませんでした。
京都が盛衰を繰り返したように、清水寺も数々の苦難を経験しそれを乗り越えてきたのです。
たとえば記録に残っているだけでも、平安時代末期の1165年には延暦寺の僧兵が境内になだれ込んで放火されたり、室町時代後期の応仁の乱での全焼など現在に至るで9回は焼失を経験しているのです。
このほかにも清水寺が、延暦寺と興福寺の日本の仏教の勢力争いに巻き込まれるなど、波乱万丈の歴史を繰り返してきたのです。
そしてその都度、朝廷や全国の寺院の再建に携わった高僧などの力を得て困難を乗り越えてきたのです。
最後に清水寺が焼失したのは、江戸時代初期の1629年です。
この時の復興に関しては、当時清水寺自身が領地や収入がわずかなものであったために、自ら復興費用を捻出することはできませんでした。
そんな清水寺の窮地を救ったのが当時の江戸幕府の将軍・徳川家光です。
第三代将軍・家光が巨額の寄進(寄付)を行うことによって、清水寺は約4年という短期間で再建されました。
清水の舞台で有名な本堂もこの時に再建されたものです。
また、この家光の寄進以外にも、清水寺は資金を得るために、本堂の本尊を有料で公開するということなどを行い、それなりに大きな収入を得ることができたようです。
清水寺の歴史年表2〜幾多の苦難から今日の発展へ
- 1063年:最初の焼失
- 1165年:延暦寺の僧の乱入による焼失
- 1469年:応仁の乱の兵の乱入による焼失
- 1629年:最後の焼失
1633年の徳川家光による再興以後、大きな災害が清水寺を襲うことがありませんでした。
つまり現在私たちが訪れることのできる、本堂や仏像などの清水寺の文化財の多くは、400年近く変わらず参拝者を迎え続けていることになるのです。
江戸時代においても、清水寺のブランド力は遠く江戸にまで及ぶほど強いものだったといわれています。
家光の再建から100年ほど経った1738年、4ヶ月の長きにわたって本堂本尊の御開帳(公開)が行れた際は、多くの参拝者を集めたと記録に残っています。
さらに江戸の各所に本尊を貸し出して公開するということも複数回行われていたようです。
そして清水寺の創建から800年以上経った江戸時代においても、信仰心の強い人々は、本堂の奥にたたずむ本尊を拝むために清水寺を訪れていたとされています。
その後、明治時代初期の廃仏毀釈によって地主神社が分離独立することはあったものの、幸いにして清水寺は災害や戦火を逃れました。
そして現在までそのたたずまいが受け継がれているのです。
延鎮の夢のお告げから始まった清水寺の歴史。
そして幾多の困難を乗り越えさせたさまざまな人々の出会いにより今日に至ります。
そのような人々ことに思いを馳せながら清水寺を旅するとより一層楽しめるかもしれませんね。
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最後まで読んでくださりありがとうございました。