京都の清水寺は北法相宗という宗旨の大本山です。
北法相宗は「きたほっそうしゅう」と読みますが、比較的新しく立宗された宗旨で、それまでの清水寺は別の宗旨に所属する寺院でした。
この記事では、清水寺の宗派の変遷の歴史を簡潔に紹介します。
清水寺は北法相宗大本山!宗派変遷の歴史概要は?
奈良の興福寺や薬師寺を大本山とする法相宗(ほっそうしゅう)という宗旨がありますが、北法相宗は法相宗と大きな関係があります。
清水寺は、奈良時代末期の778年(宝亀9年)に賢心という僧(のちの延鎮)が霊木で千手観音像を刻み祀ったことが始まりとされています。
賢心は現在の奈良にある子島寺の僧で、子島寺は法相宗である奈良・興福寺と縁の深い寺院でした。
そのため清水寺は当初、法相宗の寺院でした。
清水寺は興福寺の末寺だったのです。
平安時代初頭に、弘法大師空海が中国で真言密教を学び、真言宗が開かれます。
平安時代中期には子島寺が真言宗の一派である子島流の道場となったことで、
清水寺も真言宗との関わりが強くなったためか法相宗と真言宗の二宗を兼学するようになります。
清水寺の二宗兼学が終わるのは明治時代初頭です。
廃仏毀釈の嵐で興福寺が大きな打撃を受けます。
興福寺の五重塔が売りに出されてしまい、買主が塔を燃やして金具類だけを取り出そうとした話は広く知られていると思います。
法相宗本山の興福寺が廃寺同然になったことで、法相宗に所属する寺院は他宗派に所轄替えを命じられました。
この時に清水寺は醍醐寺の末寺となります。
醍醐寺は真言宗寺院なので、清水寺も真言宗の寺院となります。
1872年(明治15年)に法相宗の再独立が内部省によって許可されます。
清水寺は醍醐寺の所管から再び興福寺の所管になり、法相宗の寺院となります。
そして1965年(昭和40年)に清水寺は北法相宗を立宗し、興福寺から独立しました。
現在の北法相宗になったのは、戦後のことなのです。
なぜ清水寺は法相宗から独立したのか?
清水寺が興福寺から独立し、北法相宗大本山となった1965年当時の住職は、大西良慶和上です。
和上は1914年(大正3年)当時、興福寺の貫主でしたが、その時の清水寺住職の訃報の後、
清水寺信徒総代から清水寺住職就任の懇請を受けました。
「興福寺住職との兼務」を条件に和上は、清水寺住職を承認しました。
それから70年ほど清水寺の復興や布教に力を注がれました。
清水寺を北法相宗の寺院として、興福寺から独立させたのは、新興宗教が流行するなかで、既存の仏教教団の旧守に対して危機感を持っていたからだそうです。
時代によって人の心が移り変わるように、教法も時代の変化に応じて新生面を開かなければならないという考えを持たれていたのです。
ところで北法相宗の「北」にはどのような意味があるのでしょうか?
北法相宗の北とは?
清水寺は奈良時代末期の創建から北法相宗大本山として独立するまでのほとんどの期間、興福寺の末寺として法相宗の寺院であったことは前述しましたので、
北法相宗のネーミングが法相宗と関連があることはわかると思います。
法相宗の頭に「北」をつけたのは、法相宗が日本に伝来した時のことに由来します。
飛鳥時代の奈良・法興寺に道昭という僧がいました。
道昭は中国(唐)に留学し、玄奘(げんじょう)という僧から法相の教えを学びます。
玄奘というと「西遊記」に登場する三蔵法師・玄奘三蔵のことです。
玄奘は、経典を求めてインドに渡り、中国に持ち帰った経典を漢訳します。
玄奘の弟子の慈恩大師(じおんだいし)が経典の漢訳の手伝いを行い「成唯識論術記」を著しますが、
これを基に法相宗が開かれたため、玄奘は法相宗の始祖、慈恩は法相宗の宗祖とされています。
法相宗の始祖である玄奘から直接、法相の教えを受けた道昭は、帰国後に法興寺で教えを広めます。
奈良時代に平城遷都が行われると、法興寺はその後身である元興寺として平城京に創建されます。
法相宗の教えは元興寺に移りました。
これを「南伝」の法相と呼びます。
一方、元興寺より少し北に位置する興福寺の玄昉という僧が、唐に渡って智周大師に教えを受けます。
智周大師は法相宗の宗祖とされる慈恩大師の弟子にあたります。
玄昉が帰国後に、興福寺で法相の教えを広めます。
これを「北伝」の法相と呼びます。
北法相宗の「北」とは、北伝の法相の正統であることを意味しているそうです。
何度か記述した通り、清水寺は長年、北伝の法相の本山である興福寺の末寺でしたからね。
また、北法相宗の「北」は南都奈良の法相宗に対して、北都京都に法灯を掲げる法相宗であるということも意味しています。
ちなみに元興寺はのちに華厳宗の寺院に変わり、南伝の法相は断絶しています。