三十三間堂の通し矢は振袖・袴の新成人女子の晴れ姿が印象的な京都の初春の風物詩ですが、三十三間堂で新成人が矢を射るようになったのは1951年(昭和26年)以降のこと。

江戸時代に流行した通し矢とは、的までの距離や時間などのルールが異なります。

三十三間堂の通し矢の歴史や江戸時代と現在とのルールの違いなどを紹介します。

三十三間堂の通し矢の歴史・由来は?距離は現代の2倍

通し矢の起源は諸説ありますが、はっきり記録が残っているのは、江戸時代初期の1606年(慶長11年)1月19日に朝岡平兵衛が三十三間堂で100本の矢を放ち、そのうち51本を射通したというもの。

1651年(慶安4年)序刊の「年代矢数帳」に記録されています。

 

距離・制限時間・放つ矢数の組み合わせで通し矢の種目は複数ありました。

激しく争われた種目は「大矢数(おおやかず)」です。

 

大矢数では一昼夜にどれだけの本数の矢を射通したかが競われました。

三十三間堂の通し矢は約121mあるお堂の西面で行われました。

現代の三十三間堂の通し矢の的までの距離は60mなので、およそ2倍です。

 

新記録を達成すると「天下一」を名乗ることが認められ、幕府から褒美も与えられました。

大矢数が最も競われたのは江戸時代前期。

諸藩の弓の名人が大矢数に挑み、何度も新記録が塗り替えられました。

特に競い合ったのが尾張藩と紀州藩です。

 

1637年(寛永14年)に尾張藩の杉山三右衛門が総矢数7611・通し矢5044(成功率66%)の新記録樹立後、紀州藩と尾張藩が交互に新記録を変えていくことがしばらく繰り返されます。

そして1686年(貞享3年)4月27日に現在に至るまでの最高記録が誕生。

紀州藩の和佐大八郎の総矢数13053・通し矢8133(成功率62%)です。

どのような間隔で休憩を挟んだのか明瞭ではありませんが、これは単純計算で1分に9本以上の矢を放つペース。

射通せるかどうか以前に、矢を射る速さだけでも驚異的であることがわかります。

 

三十三間堂のお堂を上空から俯瞰した形は、おおざっぱにいうと南北に長い長方形。

現代の三十三間堂の通し矢は、お堂の西側の地面に立った状態で矢を引きますが、江戸時代の大矢数は、お堂西側の縁側に座って行われました。

矢が右側に反れたらお堂の壁に刺さりますし、斜め上に反れても庇にあたって射通すことができません。

なのでほぼ直線に矢を放つ必要があります。

 

前述の通り、現代の三十三間堂の通し矢の距離は60m。

この距離は弓道の競技のルールに則ったものです。

通し矢に参加する新成人がこの距離で矢を放つ機会が少ないということもあるそうですが、矢が的に届かない人も少なくありません。

江戸時代はこの2倍の約120mを射通すように矢を放っていたわけですから、相当の力がなければできないことがわかります。

しかも一昼夜続けるのですごく過酷であることもわかります。

 

江戸時代前期に加熱した大矢数の争いは、時代を経ると、挑戦者が減って行きました。

 

現代の三十三間堂のお堂にも西側の垂木(軒下の部材)に矢が刺さっています。

ただしこれは江戸時代のものではなく、昭和の時代のものだそう。

垂木に刺さる矢は南から北に向けて放たれたことがわかります。

 

江戸時代も南から北に向けて放たれた点は同じです。

江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代の1649年(慶安2年)に、三十三間堂の西側の柱に鎧板と呼ばれる鉄板がつけられました。

鎧板は、柱を矢から守るためプロテクターの役割を持たせたものですが、外側の柱の南半分にだけ備えられています。

ここからも南から北に向けて矢を放ったことがわかります。

 

一方、現代の通し矢は、三十三間堂のお堂の西側で行われるのは同じですが、矢を射る向きが北から南なので逆方向になっています。

 

続いて、現代の通し矢について説明します。

三十三間堂の通し矢は、振袖・袴の新成人女子が矢を射る姿が美しいイベントのようにも見えますが、大的(おおまと)大会と呼ばれる競技大会で、江戸時代の大矢数とはルールが異なります。

現代の三十三間堂の通し矢は大的大会!ルールや参加者は?

現代の三十三間堂の通し矢は、着物にたすき掛けをした新成人女子が注目されますが、新成人男子や称号者(錬士・教士・範士)も参加します。

 

年によってタイムスケジュールが異なる場合もありますが、通し矢当日は、午前中に新成人男子の予選、新成人女子の予選があり、昼から称号者の予選、最後に各部の予選通過者による決勝が行われ、夕方15時台に大会終了。

新成人の参加者は例年1500~2000人ほど、称号者は100人前後。

 

前述したように、通し矢はお堂の西側で開催されます。

お堂の西側で矢を射るのは江戸時代と同じですが、矢が北から南に向けて放たれることや、縁側に座った状態ではなく、地面に立った状態で競技されることは異なります。

 

通し矢の予選と決勝ではルールが異なります。

的までの距離や的の大きさなどは弓道のルールに則っています。

 

予選も決勝も、的までの距離は60m。

これは遠的競技(えんてききょうぎ)のルールで定められた距離です。

三十三間堂のお堂の南北の長さが約121mなので、的までの距離は、お堂の約半分ということになります。

 

予選は1人あたり2本(一手)の矢を射ることができます。

決勝に進むための条件は矢を2本とも的にあてることです。

 

1人あたり2分で2本の矢を射ます。

新成人は12人が横並びになって矢を引きます。

的の大きさは新成人男女が100cm、称号者が79cm。

 

新成人なら誰でも参加できるわけではなく、初段以上でなければ申し込みできません。

新成人の決勝進出者は男女合わせて数十人程度。

 

決勝は予選とは異なり、射詰競射(いづめきょうしゃ)のルールに進行。

1人当たり1本の矢を放って、的から外れた人が負けぬけていき、最後まで残った人が優勝する形式です。

的の大きさも予選とは異なり、新成人が79cm、称号者が50cm。

 

 

江戸時代と現代の三十三間堂の通し矢は、似ているようでルールが全然違います。

ですが、大矢数が行われていたゆかりで現代も境内で大的大会が行われていたり、板鎧や垂木に刺さる矢が残っていたり、三十三間堂と弓の歴史を今日でも感じられるのは良いですね!

 

↓↓通し矢開催当日の三十三間堂は、堂内も含めて無料で立ち入り可能です。

最後まで読んでくださりありがとうございました。