興福寺仏頭の東金堂での特別公開のポスターのアイキャッチ画像

国宝の興福寺仏頭は、阿修羅像とともに興福寺で有名な仏像です。

 

頭部や失われた首から下を含む大きさはどれくらいでしょうか。

またどのような歴史や特徴を持つのでしょうか。

 

仏頭の大きさや歴史、特徴について紹介します。

奈良・興福寺の仏頭の大きさは?丈六仏の頭だから大きい

興福寺仏頭の東金堂での特別公開のポスター
興福寺仏頭の東金堂での特別公開のポスター

興福寺仏頭の大きさは、98.3cmです。

 

頭部だけで1m近くあるので、失われた首から下も含めると人間より大きいことは予測できますが、どのくらいだと思いますか?

 

 

仏頭は丈六仏(じょうろくぶつ)の頭部です。

 

 

丈六仏とは「一丈六尺(いちじょうろくしゃく)の大きさの仏様」という意味で、一丈は一尺の10倍です。

 

つまり一丈六尺は、一尺の16倍の大きさ。

 

一丈は30.3cmなので、一丈六尺は約4m85cm。

 

 

 

これは立像(りゅうぞう:立ち姿の仏像)の大きさです。

 

仏頭は坐像の頭部ですから、焼失した首から下を含む全身の大きさ(座高)は、立像の丈六仏の半分の2m42.5cmに近いサイズであったと推測できます。

 

 

大きいですね。

 

 

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興福寺仏頭の歴史は?長い眠りから目覚めた東金堂の旧本尊

1180年(治承4年)に平重衡の兵火によって東金堂は焼失しました。

 

その時に東金堂で祀られていた仏像のほとんども焼失し、東金堂後堂に配置されていた正了知大将立像の首だけが燃えずに残りました。

 

 

火災後の復興は寺家(興福寺)が担当しました。

 

 

お堂の再建は1185年(元暦2年)に終了しましたが、仏像の再興に時間がかかりました。

 

 

1187年(文治3年)にしびれを切らした興福寺の僧兵が当時、奈良県桜井市の山田寺の講堂に祀られていた薬師三尊像を無理やり運び出し、東金堂の新たな本尊として祀りました。

 

 

その後、東金堂は1356年(文和5年)と1411年(応永18年)にも火災にあっています。

 

 

応永の火災の時に、山田寺から運び込まれた薬師如来像は、頭部のみを残し、首から下は焼失しました。

 

その燃え残った頭部が、現在国宝に指定されていて有名な興福寺仏頭です。

 

 

頭部だけ燃えずに済んだのは、他の部位が燃えている時に頭部が落下したからだと考えられています。

 

仏頭の左側面は傷んでいますが、これは落下時の衝撃によるものだと推測されています。

 

 

 

山田寺から移された薬師如来像が頭部だけを残して消失したため、新しい薬師如来像が必要になりました。

 

1415年(応永22年)に薬師如来像坐像が再興されましたが、それが現在も東金堂の本尊として安置されている薬師如来坐像です。

 

山田寺の薬師如来像の両脇侍の日光菩薩像・月光菩薩像は、応永の火災の時に救出されたため焼失せず、今日も東金堂の本尊の両脇侍として現存しています。

 

 

 

1937年(昭和12年)に東金堂の文化財保存修理が行われました。

 

その時、東金堂の現本尊の台座の下から仏頭が再発見されて話題になりました。

 

仏頭を台座の下に納めた当時の人たちからすれば「再発見」という言葉はおかしく聞こえるのでしょうが、仏頭は長い年月の間、台座の下で眠っていたのです。

 

いつの間にかその存在は興福寺の関係者たちからも忘れられ、昭和になって偶然その存在が再び世に認知されたので、現代人からすれば「再発見」されたということになります。

 

 

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興福寺仏頭の白鳳文化の特色を持つ基準作!ボロボロなのに国宝?

興福寺東金堂
興福寺東金堂

私が仏像を鑑賞し始めた頃は、頭部しか残らない大破した仏頭が、なぜ国宝指定されているのかわかりませんでした。

 

 

制作年や伝来が明確であることと、美しい造形美が高く評価されたことが、仏頭が国宝に指定されている理由のようです。

 

 

 

 

制作年や伝来、造形美について順に説明します。

 

 

645年(紅玉天皇4年)の「乙巳の変(いっしのへん:蘇我蝦夷や蘇我入鹿を滅ぼされたことで知られる大化の改新の前の政変)」から710年(和銅3年)に平城遷都が行われるまでの期間を「白鳳時代(はくほうじだい)」と呼ぶことがあります。

 

白鳳時代に造像された仏像で現存するものの多くは、朝鮮半島からやってきた渡来人によって造られたもので、作者や制作年代がわからないものばかりです。

 

 

仏頭は678年(天武7年)から鋳造され、685年(天武14年)に開眼されたことが記録からわかっているので、制作年が明確です。

 

開眼日は、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の祥月命日。

 

 

石川麻呂は、蘇我馬子の孫です。

 

蘇我蝦夷と蘇我入鹿は、それぞれ石川麻呂の伯父と従兄弟に当たります。

 

石川麻呂は蘇我氏の一族ではあるものの、入鹿たち蘇我氏本宗家とは敵対していたので、乙巳の変の時に中大兄皇子や中臣鎌足の勢力に加担しています。

 

 

興福寺仏頭は、山田寺講堂から運び込まれた薬師如来像の頭部であったことは、前項の仏頭の歴史のところで説明しました。

 

 

山田寺は蘇我馬子の蘇我倉山田石川麻呂が、641年(舒明13年)から造営した氏寺(氏族一門が帰依し、祈願所や菩提所とした寺)です。

 

649年(大化5年)に石川麻呂の異母弟にあたる蘇我日向(そがのひむか)が「石川麻呂が謀反を起こそうとしている」と密告をしたため、孝徳天皇が派遣した兵が山田寺を包囲しました。

 

追い込まれた石川麻呂は山田寺で自害しますが、後に石川麻呂は無実であることが判明します。

 

そして石川麻呂の死後に山田寺の薬師如来像(現・興福寺仏頭)は鋳造され、685年(天武14年)に開眼されます。

 

前述したとおり、開眼日は石川麻呂の祥月命日なので、石川麻呂の孫にあたる鸕野讃良皇女(うのささらのおうじょ:のちの持統天皇)や、その夫の天武天皇が石川麻呂の冥福を祈って造像されたものと推定されます。

 

 

このように興福寺仏頭は、制作年や伝来が明らかです。

 

 

さらに仏頭は造形が美しいです。

 

童顔の若々しい張りのある肉付きや、眉と眼の直線的な切れ味、高い鼻梁、長く垂れ下がる耳は白鳳時代の仏像の特徴がよく出ています。

 

奈良市にある薬師寺の本尊・薬師如来坐像とは同じぐらいの大きさで、制作年代も近いと見られています。

 

仏頭より薬師寺薬師如来坐像の方が、鋳造技術が高いですが、仏頭は頭部しか残っていないものの薬師寺薬師如来坐像のように完成度の高い仏像であることはわかります。

 

頭部の出来の良さから失われた首から下の部分の造形も破綻のない素晴らしいものであったことが想像されます。

 

 

 

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大破した仏像の頭部ですが、今なら仏頭が国宝であることが腑に落ちます。