興福寺東金堂の仏像一覧・数と種類のアイキャッチ画像

興福寺東金堂では国宝や重要文化財の仏像をたくさん拝観することができます。

 

お堂の後ろ側には、通常非公開の仏像が安置されています。

 

この記事では東金堂の仏像の一覧を非公開のものも含めて紹介しています。

奈良・興福寺東金堂の仏像の種類や数は?

興福寺東金堂
興福寺東金堂

興福寺東金堂の仏像一覧

  • 薬師三尊像  3軀(重要文化財)
  • 維摩居士坐像 1軀(国宝)
  • 文殊菩薩坐像 1軀(国宝)
  • 四天王立像  4軀(国宝)
  • 十二神将立像 12軀(国宝)
  • 正了知大将立像 1軀

東金堂の内部には22軀の仏像が安置されています。

 

 

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薬師如来坐像

本尊の薬師三尊像は、薬師如来坐像と両脇侍が日光菩薩立像・月光菩薩立像という一般的な薬師三尊の形式です。

 

薬師如来坐像は1411年(応永18年)の火災で焼失した後に再興された室町時代の作。

 

銅造で、像高は255.0cm。

 

 

応永の火災以前の東金堂の本尊は、現在、国宝の仏頭として知られている如来像でした。

 

 

 

鎌倉時代に奈良・飛鳥の山田寺講堂で祀られていた如来像を、興福寺の僧兵が強引に運び込んで東金堂の本尊として祀りましたが、その如来像が応永の火災で頭部のみを残して焼失してしまいました。

 

その時に焼け残った頭部が国宝指定されている、あの有名な仏頭ということです。

 

 

繰り返しになりますが、応永の火災後に新たな東金堂の本尊として1415年(応永22年)に造像されたのが、現在も本尊として祀られているこの薬師如来坐像です。

 

 

非公開の仏像ではないので、常時拝観できます。

 

日光菩薩立像・月光菩薩立像

薬師如来坐像の両脇侍として配置されている日光菩薩立像と月光菩薩立像です。

 

 

中尊の薬師如来坐像に向かって右に配置されているのが日光菩薩立像で、像高300.3cm。

 

向かって左に配置されているのが月光菩薩像で、像高298.0cm。

 

両像ともに銅造。

 

 

日光菩薩像と月光菩薩像も、鎌倉時代のはじめに如来像(国宝の仏頭として頭部のみが現存する像)とともに飛鳥の山田寺から運び込まれたものです。

 

 

薬師如来坐像の説明で前述した通り、如来像は応永の火災で頭部のみを残して焼失しましたが、この日光・月光菩薩像は損傷は受けたものの焼失は免れました。

 

国宝の仏頭より少し時代が下る奈良時代(8世紀)の作と見られています。

 

一般的な日光菩薩像、月光菩薩像とは異なり、どちらも宝冠に化仏をつけています。

 

宝冠に化仏をつけるのは、観音菩薩の特徴で、日光菩薩も月光菩薩も普通は化仏をつけません。

 

しかも観音菩薩が阿弥陀三尊形式で祀られる時は、左脇侍として配置されるので、両脇侍の菩薩像がともに化仏をつけるというのも通常は見られないものです。

 

 

中尊の薬師如来坐像と同様に非公開の仏像ではないので、常時拝観できます。

 

 

維摩居士坐像

平安時代末期の1180年(治承4年)に平重衡の焼き討ちによって東金堂は焼失しました。

 

現存する維摩居士坐像(ゆいまこじざぞう)は、治承の兵火後の東金堂再興時に造像された仏像です。

 

 

木造で、像高は88.6cm。

 

非公開の仏像ではないので、常時拝観できます。

 

 

維摩居士坐像の口が開いているのは、文殊菩薩と論争する姿を表現しているからです。

 

頭部の血管や眉間の皴など、老齢の男性の彫刻としての写実表現がすばらしい。

 

 

像内からは銘文が発見されており、維摩居士坐像が鎌倉時代の1196年(建久7年)に造像されたことや作者が奈良の仏師・定慶であることが判明しています。

 

 

興福寺には維摩居士坐像のほかにも定慶が造像した梵天立像(重要文化財)が現存しており、梵天立像は国宝館で拝観することができます(ただし2017年は建物の改修工事のため国宝館の拝観は休止)。

 

 

維摩居士坐像と梵天立像の衣文表現には、当時の中国(宋)の仏像の影響が見られます。

 

 

文殊菩薩坐像

鎌倉時代の1196年(建久7年)の作。

 

木造で、像高は93.9cm。

 

非公開の仏像ではないので、常時拝観できます。

 

維摩居士坐像を造像した定慶か、その周辺の仏師によって造られたと見られています。

 

文殊菩薩坐像の若々しい姿は、老齢の維摩居士坐像とは対照的です。

 

四天王立像

持国天立像の像高は162.5cm。

増長天立像の像高は161.0cm。

広目天立像の像高は164.0cm。

多聞天立像の像高は153.0cm。

 

すべて木像です。

 

平安時代初期の8世紀末から9世紀初期の作と見られています。

 

1180年(治承4年)の平重衡による兵火で東金堂が焼失し、再建された後に別のお堂から東金堂に移されて祀られてるようになりました。

 

それ以前の伝来ははっきりとはわかっていません。

 

 

頭部と体幹部を合わせた主要部分を、一本の材木で造る一木造(いちぼくづくり)の技法で造られています。

 

使用されているのはヒノキ材。

 

内刳は施されていません。

 

 

頭髪や甲冑の一部、邪気の表面に乾漆が盛り付けてあります。

 

これは奈良時代に流行した木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)の技法です。

 

非公開の仏像ではないため、常時拝観できます。

 

 

十二神将立像

毘羯羅大将立像(びからたいしょう:子)の像高は119.0cm。

招杜羅大将立像(しょとらたいしょう:丑)の像高は120.0cm。

真達羅大将立像(しんだらたいしょう:寅)の像高は117.6cm。

 

摩虎羅大将立像(まごらたいしょう:卯)の像高は118.2cm。

波夷羅大将立像(はいらたいしょう:辰)の像高は115.4cm。

因達羅大将立像(いんだらたいしょう:巳)の像高は119.7cm。

 

珊底羅大将立像(さんていらたいしょう:午)の像高は124.2.cm。

額儞羅大将立像(あにらたいしょう:未)の像高は124.2cm。

安底羅大将立像(あんていらたいしょう:申)の像高は124.5cm。

 

迷企羅大将立像(めきらたいしょう:酉)の像高は126.3cm。

伐折羅大将立像(ばさらたいしょう:戌)の像高は113.0cm。

宮毘羅大将立像(くびらたいしょう:亥)の像高は114.4cm。

 

 

 

すべて木造です。

 

 

波夷羅大将立像(辰)の沓裏のほぞ(仏像を台座に固定するために意図的に作る出っ張り)に、

1207年(建永2年)に彩色を終えたという銘文があるので、十二神将立像はその頃に造像されたことがわかります。

 

 

 

作者はわかっていませんが、維摩居士坐像を造像した定慶の一門が関係していると見られています。

 

 

12軀の神将像は作風にばらつきがあるため、複数の仏師が分担して造ったと思われます。

 

 

非公開の仏像ではないため、常時拝観できます。

 

 

正了知大将立像

正了知大将(しょうりょうちだいしょう)立像は「踊り大将」の異名を持っています。

 

 

奈良時代に創建された東金堂が平安時代の1017年(寛仁元年)に火災によって焼失しました。

 

その時に正了知大将立像は、自ら動いてお堂から踊り出たため、被災を免れたという伝説があり、これが「踊り大将」という異名の由来になっています。

 

その奇譚から『希代の霊像』と、その霊験を広められました。

 

 

ですが、後の火災で当時の正了知大将立像は焼失したため、現存する像は室町時代の1370年(応和3年)の作です。

 

 

像高167cmの寄木造(よせぎづくり)。

 

 

 

東金堂の後堂(東金堂の正面にある須弥壇の裏側の空間)に安置されています。

 

 

本尊の薬師如来坐像と壁を隔てて背中を合わせるような状態ですし、後堂に参拝者は立ち入れないため通常は拝観できません。

 

興福寺東金堂の見どころや拝観料は?四天王立像や薬師如来を見学可能

東金堂の後堂は特別公開されたことがある

通常非公開になっている東金堂の後堂ですが、過去に期間限定で特別拝観が実施された時期があります。

 

下記の2回です。

  • 2010年10月9日~11月23日
  • 2014年10月24日~11月24日

 

 

次に後堂が公開される時期はわかりません。

 

 

後堂の特別公開の時は、通常は正面からしか拝観できない東金堂の21軀の仏像を横や斜め後ろの角度からも拝観できるという仏像好きには嬉しい付加価値もありました。

 

 

 

東金堂は仏像の宝庫です。

 

須弥壇上にたくさんの仏像が配置されているため見づらい像もありますが、仏像好きの方はぜひ拝観することをおすすめします。